戦争反対という言葉を馬鹿にする人に、日常が奪われることを考えてほしい
今も尚、続いている、ロシアのウクライナへの軍事侵攻。
軍事侵攻なんてかっこいい言葉を並べているが、誰もがわかっている事だが、こんなの戦争だ。
それも、ある意味では一方的な、大国が小国をいじめるかのごとく、とんでもない暴力としか言えない状況だ。
一昨日、この発表があってから、僕はずっと心を痛めていた。
いや、痛まざるを得なかった。
正直、この件に対して、誰も彼もが言うもんだと思っていた。
にも関わらず、SNS上では当たり前のような日々が続き、若干どころではない違和感を覚えた。
他国のことなんか知らないよ。と言われればそれまでなのかもしれないが、にしてもだ。
そして何よりも、戦争反対という、小学校の社会で習うような、当たり前のワードすら、下卑され、言うことすら憚られる空気感すら感じている。
正直に言うと、なぜ?としか僕は思えない。
そもそも、戦争反対という、当たり前の事に、平和を願うという、シンプルなことが、なぜ言うことが躊躇われるのか、僕には全くわからない。
正直、ここまでナーバスになっている理由として、約3年前、台風19号による避難・そして残った被害の爪痕を見てきたからだと思う。
あの時、どうなるか本当に不安であり、自分の家を置いて避難をしなければならないことへの不安。
そもそも、避難から帰った後に、家が残っているのかという事も考えた。
加えて、その時避難していた家族や姉夫婦の姪、そしてペットなど、大人は我慢出来るが、子供やペットにとっては、訳の分からない時間と、普通の生活が送れないというストレスが否応なくかかる。
あの時の状況や心持ちは今でも思い出す度に気持ち悪くなり、出来ればもうあの時のようなことは起きてほしくないと願うばかりである。
過ぎた後も、その時の爪痕と言わんばかりに、削られた土地や流された家の跡・川にはどこから流れてきたのかわからないコンクリートや鉄で出来た人工物。
橋脚には流木が貯まっているが、撤去するにもどうすることも出来ず、結果長期間に渡り放置されていた。
そんな惨状を見ていたからこそ、今回のウクライナへ尚のこと感情輸入してしまうのだ。
単純に聞きたいのだが、戦争反対と冷笑するやつは、なぜ笑えるのだろうか。
今僕が上げた経験のようなことが自身にももし起きた時、家族や家庭が無くなるかもしれない、という不安を覚えないのだろうか?と、いわば、事が起きた後の、自身が当事者となった後の考えが及ばないのだろうか?
自分でなくても、家族やペットの命が、生活が奪われるかもしれない・・・
そのシーンを少し想像すれば、不安にならない人間はいないと信じたい。
戦争とは、そんな自分の大切ななにかが、奪われる可能性があるのです。
そう考えれば、戦争反対という言葉を馬鹿にする思考には到底及ばないと思っているのだ。
そんな人が今でもウクライナに沢山いる。
大人も子供もペットも、誰も彼もが明日の生活に不安を感じ、いつ降ってくるかもしれないミサイルに怯えている。
そんな生活を送らされているという事実が、単純に嫌なのであり、これを我が身のことのように捉えられないのだろうか?と、純粋に考えているのです。
そして、ロシアの人も、権力者の暴走により、自分がロシアという国に生まれたことを恥じているという発信をされる方も多くおり、今この瞬間に終結したとしても、その傷が癒えることはなく、場合によっては、ロシア人だから、という理由でいじめられる人や、迫害される人も出てくるかもしれません。
それこそ、経済制裁ではなく、本当に武力による報復、も現実問題空想とは言えない話ではないでしょうか。
というより、まだなっていない事が、奇跡なのかもしれません。
そんな風に、ここに生まれたことを恥じさせるような事をする大統領が、人の上に立つんじゃねぇよ。と思いますし、もし今、こんな状況でなお、プーチン大好き!と言うような奴がいたら、正直どんなに関係が深かろうとも、誰であってもその瞬間に関係を切ります。
その位、僕は今回、戦争という、過去の負の遺産としか思えない愚行を現代に再び呼び起こし、自分はさも悪くないかのごとく、人々を何百人も死に追いやり、その先にプラスなことは1mmも残らない、戦争に踏み切ったプーチンには怒りしかありません。
もちろん、当たり前ですが、こんな風にブログを書いている時点で、生活が整っていて、それこそ、こんな時にブログ書いているお前が一番平和ボケしてんじゃねぇかと思っている方もいるかもしれません。
もちろんそんなことは百も承知です。
ただ、だからといって、戦争反対なんてと冷笑し、はっきり言ってしけた態度取ってるクソ野郎と一緒にしてほしくはないです。
僕は本当に怒ってますし、状況を見る度に心が痛み、そして、こんな現実が怒っている今なお、温かい部屋でのうのうと過ごしている自分に嫌気が差し、感情と心と肉体が追いついておらず、精神的に疲れてしまっています。
ここまで疲れる必要なんてないのかもしれませんが、ただ、この日本にいる現実と、世界で起きている状況。そしてある種、SNSながらもある意味では仮想現実のようにも感じるタイムラインの乖離を見ていて、どうしてもなにか発言をしなければならないと感じたのです。
それは正義感や使命感といった大それたものではなく、人として当たり前な、マナーではなくモラルがどんどん欠如しているように感じたからこそ、自身の想いを最もダイレクトに伝えられる自分のブログで言いたくなったのです。
もし、自分が戦争反対という言葉を言うのをためたらっている人がいたら、言ってください。
戦争反対なんて、どんな政治的アティテュード関係なしに、人間として当たり前な考えです。
もし、この言葉をバカにする人がいたら、明日自分や自分の家族の生活が唐突に訳の分からないことで奪われたことを想像してください。
それさえ考えられれば、きっと戦争反対という言葉をバカに出来なくなります。
もしそれでも言うようであれば、申し訳ないですが勝手にしてください。
バカに付ける薬はないです。
ここまで長文となりましたが、今は一刻でも早く、ウクライナからロシア軍が撤退し、これ以上人の命が奪われることなく、この戦争が終結することを願っています。
もし言葉で解決しないようであれば、もう最悪プーチンとゼレンスキーで殴りあって解決してくれ。人を巻き込まないでくれ。と願うばかりです。
ディスカッション
コメント一覧
戦争反対!の何が馬鹿にされているのかを解像度を上げて分析してみては如何でしょうか。
喧嘩してる者に対して喧嘩反対!喧嘩やめろ!なんてのは幼児でも犬でも訴えます。
戦争に至る経緯、停戦への道筋等、イメージすればするほど、戦争反対!と訴える空虚さを認識できるのではないでしょうか。
あなたは平穏な日常の大切さをしっかりと認識できる方ですので、こちらにさせて頂いたコメントの真意もきっと伝わると思います。
平穏な日常は何で出来ているのだろう?
戦争とはどういう道筋で始まるのだろう?
和平への道筋とその後言われる平和とは何を定義している言葉なのだろう?
平和の語源等は回答への補助線になるかもしれません。
考えるのをやめてしまった国民、大衆にウンザリしているという点ではあなたも私も、そして戦争反対をただ唱える人々を馬鹿にする人々も一緒なのかもしれませんね。
返信が届くかわかりませんが、こちらに返信を書かせていただきます。
文書を読む限り、おそらく私とあなたは似ているのだと思います。
あなたもまた、平和を望みつつ、とはいえ現状にうんざりしている。文面だけでそう見えました。
ただ、この記事を書いたのは2年前ですが、それ以降世界も、この国ももっと悪い方向へ加速していくように感じ、言葉が無力なように尚のこと感じています。
ただ、それでもこのワード自体は言わなければならないと思いますし、忘れてもいけないと思います。
ガザの惨状を見て、尚のことそう思います。
ただ、ここで言い争ったところでお互いの悩みの種が消える訳では無いですし、言い争うことの無力さも無駄に互いの力も時間も割くのも、虚しすぎると心の底から思っていますので、お互いの干渉は控え、何が出来るかを互いにずっと考えましょう。
ありがとうございました。